applemint 代表佐藤峻のプロフィール

applemint 代表佐藤峻のプロフィール

こんにちは、台湾でウェブマーケティングのサービスを提供する applemint 代表の佐藤 (@slamdunk772) です。

クソ真面目でビビリで、クリエイターやアーティストのコネなんて何もないけど、「台湾に面白いやつがいる」を目指しています。

僕は台湾で applemint という会社を起業して早4年 (2021年10月24日現在) です。コロナウイルスの影響で、今後数ヶ月は我慢が必要になってきますが今の所会社は大丈夫です…(いつまでコロナウイルスが続くのやら)

そんな僕はよく周りから「台湾で起業して勇気あるね」、「よくやってるよ」、「優秀だね」「いいリーダーだね」「頭いいね」とか言われますが…..

ま・じ・で違います。

どちらかというと今まで勇気がなくて、会社員時代も自己中であまり目立たず、リーダーシップなんて避けてました。クリエイティブな人に憧れながらも、クリエイティブな人みたいな大胆さはもちろんありませんでした。

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でも今後は大胆にガンガン行動しますよw

所謂「面白い」と言われているような人達みたいに破天荒なわけでもないと思ってます。そんな僕でも台湾で「これやったら面白そう」というアイデアがあって、面白い人達と面白いことをして、面白いコミュニティを作りたいって願望があります。

あと、個人的に台湾で一番面白いことをしている広告代理店になりたいと思っています。要するに一番クリエイティブな広告代理店になるということです。目指すは台湾版の Wieden + Kennedy です。

Wieden + Kennedy

アメリカポートランドにあるクリエイティブエージェンシー。Nike の Just Do it のキャンペーンを企画した有名な会社。

今回はそんな僕のここまでの生い立ちを時系列で話したいと思います。

色々臆病だった幼少期〜中学時代

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4才ぐらいの僕

幼少期はアメリカのロサンゼルスと福岡県で育ちました。幼少期のロサンゼルスの記憶はほとんどありません。小学校は福岡の大濠公園の近くで育ち、小学3年生ぐらいからサッカーを始めました。

きっかけは単純に周りがサッカーをしていて、置いてけぼりにされたくなかったからです。サッカーを始めたばかりの頃はいつも自分に自信がなく、何度も辞めようと思いました。

自分に自信が持てなかったので、いつもベンチで、試合に出るといつもビビってました。むしろ、試合に出たくないような選手でした。しかし怪我をしたことでサッカーに対する姿勢が変わりました。

今まで試合が怖くて、やらされてる感しかなかったのに、気づいたら必死でリハビリしている自分がいました。あれ、僕サッカー好きなんじゃない?なんて思い始めました。そんなきっかけからビビリだった僕は目立たないサイドバックから FW になりたいとコーチに直訴しました。

あ、それまでゴールなんて決めたことはないです(苦笑)

FW になってからはサッカーが少しずつ楽しめるようになりました。この経験が今どう生きているかわかりませんが、我慢強さを学んだ気がします。

佐藤峻leo sato

この時に辞めないことを学んだ気がします。

アメリカの中学〜高校時代

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高校卒業時の僕

その後福岡で中学2年生まで育ちました。そして中学2年になったある日、突然アメリカに行くと親から言われました。理由は僕の母が、僕が福岡に居続けると僕が腐ると思ったからだそうです(苦笑)

確かに中学1年になるとやんちゃなことを始めて、学校に何度も呼び出されました。やんちゃなことと言っても元々ビビリな僕がケンカや悪いことを進んでやれるわけがありません。せいぜい悪いことしてるやつのための見張り役です。

佐藤峻leo sato

喧嘩をしない花垣武道です(笑)

ただ誰が主犯でもバレたら連帯責任なので、学校にはよく呼び出されました。先生にはある時平手打ちで14発叩かれました。(隣で見ていた友人が数えてました 笑)この先生は今同じことをしたら、全国ネットでニュースになるでしょうね。

ビビリだけどやんちゃなグループにいた僕はなんか色々勘違いしてて、この時期は自分が強いなんて思ってました。そんなやんちゃな僕が、アメリカに着くと英語が出来ず悔しい思いをしました。着いて最初の半年は結構ストレスで、ほぼ毎日吐いてばかりいました。

やんちゃなグループにいたことが一回だけ功を奏したことがあって、ある日学校で韓国人に絡まれた時、自分は強いと勘違いをしていたので相手の挑発に対して怯まなかったら相手が去ったことがあります。そいつとはその後友達になります (笑)

今では周りから「そんなに英語ができて羨ましい」「やっぱアメリカ育ちは違うね」なんて言われますが、僕は中学でアメリカに行くまで、勉強なんてほとんどしてきませんでした。

でも福岡にいた時にやんちゃなグループにいたせいか、なめられたくないって気持ちだけはあって、その後英語はかなり勉強しました。英語が第二言語の人向けのクラスでは秀才中国人と競い、結果は…..

見事完敗でした。(その後彼は MIT に行った 苦笑)

中学卒業後は家の近くの、現地の公立高校に行きました。全校生徒はヒスパニック系が 66%、黒人 20%、その他の人種 14%、とマイノリティーが多く、お世辞にもいい高校ではありませんでした。

例えば僕が1年生の時 600人入学した生徒は、卒業時に 150人になっていました(苦笑)ギャングはいましたし、トイレで売人がマリファナの売買をしてましたし、拳銃を持ってきているやつもいました。ある年の卒業式では卒業生同士が喧嘩を始めて、ヘリまで来ました(苦笑)

そんな中で僕はサッカーをしながら比較的貧乏な生活をしていました? 高校時代は日系のスーパーやファミレス、お寿司屋さんでバイトしてました。少し苦労人してたせいか、同じく苦労人だったメキシカンの同級生と気が合い親友になりました。いい思い出です。

manuel656 in applemint 代表佐藤峻のプロフィール
身長187cm 87kg で明らかに高校生じゃないメキシカンの親友のマヌエルです。

サッカーは真面目に続けてました。僕のチームは南カリフォルニアで毎年ベスト16〜ベスト8 ぐらいのまーまー強いチームでした。

その中でも日本人の僕の技術は際立っていました。でも不思議と試合になると、僕よりも技術で劣るアメリカ人やメキシコ人が結構本領を発揮するんですよね。これは本当にメンタリティの問題だと思っています。

佐藤峻leo sato

この経験から、技術よりもメンタルが大事なことを教わりましたし、技術がいくらあってもメンタルがひよっこだとダメなことも学びました。

この頃同時に兄の影響で、ターンテーブルや DJ なんかに興味を持ち始めます。

普通の学生だった大学時代

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大学卒業時

高校卒業後、母はビザが切れるため日本へ帰ることになっていました。中学で福岡にいた時は大学なんて考えられませんでしたが、アメリカでなめられたくない一心で勉強を続けてたら大学が現実的な選択になりました。

大学は日本とアメリカどちらにしようか考えましたが、母と一緒に日本へ帰ることにしました。この頃にはロサンゼルスに少し飽きていて、刺激が欲しくて東京に行きたいと思っていました。

ロサンゼルスで飽きるなんて信じられない、と思うかもしれませんがロサンゼルスにいた時は、いつも同じような人とつるんでいて正直最後の1-2年はつまらないと感じていました。あと、アメリカの大学に行っても周りに流されてパーティ三昧になりそうだったので、アメリカの大学はあまり興味がありませんでした。

日本の大学はアメリカのような多様性があって、国際的な環境がいいと思い、『9月入学可能』『国際的な環境』『東京』という基準で国際基督教大学を受けました。

正直、それまで国際基督教大学なんて聞いたことありませんでしたし、そもそも名前が怪しいと思っていました。結果は合格したわけですが、あとで聞いたらかなり難しい大学と知りビックリしました…日本にいたら絶対受かってないと思います。

もちろんアメリカに渡って勉強しましたし努力はしましたが、親がくれた環境で受かったようなもんです。親には本当に感謝してます。

佐藤峻leo sato

僕が優秀だから合格したというより、本当に運の要素が強いと思っています

大学時代

こうして東京の大学に入った僕は遊びまくって….ません(笑)大学時代は勉強と DJ とかを主にしていました。結構本を読んでましたしほどほどに遊ぶ、いたって普通の大学生だったと思います。大学入ってまで遊んだら親に申し訳ないって気持ちもありました。

周りは地頭がいい連中が多く、こういうやつらが賢いっていうんだなーって思ってました。高校時代に興味を持った DJ はそのまま続けてました。ただし、根は依然としてビビリだったので、友人の DJ が渋谷やその他の有名クラブで定期的に DJ をやる中、僕は基本的に引きこもって DJ をやることが多かったです (苦笑)

たまに毎週DJするなんてこともありましたが、主戦場は家でした。おかげでスクラッチとかものすごく上手くなりました。

佐藤峻leo sato

この時に DJ やアーティスト、クリエイティブな人達は面白いなー、こういう人達かっこいいなーとか思い始めました。

自分の中で何かが変わった台湾と社会人時代

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暖房のない冬に極寒のカフェで猫と食事をとる僕 (2010年)

2010年6月に卒業して、所謂新卒の4月入社の波から外れた僕は、卒業後一旦台湾へ行きました。大学時代にすでに、今後東京には長くいないだろうな、と感じ始めていました。アメリカから東京に初めて行った時、人々の電車のマナーの悪さにショックを受けましたし、東京じゃ働きにくいだろうな、なんて思ってました。

そこで、将来海外に出た時どうすれば仕事があるかなー、と思ったらアジア人だしアジアを理解している人間が戦力になるだろうと考え始めました。アメリカにいた経験上、アメリカ人の多くは中国人、韓国人、日本人の違いを見分けられないので、それなら東アジアの 3つの国の文化や商習慣を理解している人は相当強いと思いました。

なのでまずは言語コミュニケーションが大事と思った僕は、中国語か韓国語のいずれかの言語を始めることにしました。韓国人の友人曰く、韓国語と日本語は似ていて簡単らしいので、まずは難しそうな中国語から始めることにしました。

中国へ行くことを考えましたが、ビザが厳しかったので断念しました。ちょうどその時、日本と台湾の間にワーホリ制度が出来たことを聞いたので、中国語が公用語の台湾へ行くことにしました。勇気があって台湾に行ったというより、将来東京で脱サラするために行きました…

佐藤峻leo sato

2010年当時、台湾へのワーホリは全国で限定100人で、申請開始からすでに2ヶ月経っていた僕は慌てて『台北駐日経済文化代表処』に行ったら僕は全国でまだ 5人目の応募者でした(苦笑)

そしてついに台湾に着きましたが中国語はほとんど出来ませんでした。でも学校に行くお金がないので、農場で住み込みをして中国語を覚えました。農場では、仕事が終わってから Youtube を見て、わからない単語をひたすら辞書で引きながら発音を真似ました。

そしたら 3ヶ月後ぐらいに結構聞き取りができるようになりました。嘘だと思うかもしれませんが、本当に突然みんなが話している内容がわかったのです。あの日の光景はずっと脳裏に焼き付いてます。

中国語が必須な環境だったので必死だったのだと思います。この時の中国語の習得方法は Youtube の動画に載せています。

この時に知り合った一部の農家とは今も連絡を取っていて、彼らと何かしたいなと考えています。ちなみにこの時1ヶ月1万円ぐらいで8ヶ月間過ごしました。

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住み込みした農家で初めてバナナの木を見ました
佐藤峻leo sato

本当にお金がなくて農場のトレーラーハウスに住んでいました。夜はネズミの走る音で起こされ、天井には常に4匹ぐらいゴキブリがいる環境でハングリー精神を養いました(苦笑)

ナメまくった就職活動と社会人時代

話を少し台湾に行く前に戻します。僕は台湾に行く前の大学3年時に就職活動をしました。周りは色々頑張る中、僕は英語出来るし割と自分の大学は結構優秀らしいからどこか引っかかるでしょみたいに思ってました。

結果、落ちまくります。なんとか1社メーカーから内定をもらい、就職活動を終えました。周りは何社からも内定をもらっていましたが、僕は受けても受けても落ちまくりでした。受ける会社の研究とかしてなかったので当然です。

その後周りの内定者は大学4年時に内定式とか行くと思うのですが、僕は6月卒業という特殊な環境で卒業後すぐに台湾に行ったので、内定式とか全て欠席しました。入社時同期からはちょっと変な奴がいると思われてたみたいです。

幸いにも就職した会社はいい会社で、僕の部は超ホワイトな環境でした。2011年に就職したのですが、その当時はまだまだブラックな企業が多い中での超ホワイトな環境で恵まれていました。

その中で1人空気が読めない僕は、ほぼ毎日5:30 に定時で帰っていました。そこには定時で帰りたかった理由がありました。

どうしても定時で帰って中国語を勉強する時間を確保したかったので、僕は常に効率を考えてました。集中すると邪魔されたくなかったので、新人なのに代表電話も度々無視していました…

佐藤峻leo sato

チームワークのかけらもなく applemint なら確実に採用したくないような人材です….
今の僕がその当時の僕を新人として迎え入れたら、相当怒りますね…

経営する立場になってわかりますが、2019年に亡くなった瀧本哲史さんがお話ししていたように、企業にいる限りは社内で評価されるプレーヤーになるべきという意見にはすごく同意です。

関連記事:急逝した瀧本哲史さんが遺した「2030年を生きる人たちへのメッセージ」

ホワイト企業でしたし、長く勤めることも可能でした。しかし2年半ほどで辞め、台湾の大学院に行くことにしました。理由は中途半端な中国語をもう一段上達させるのと、台湾で自由に動くことでした。

佐藤峻leo sato

会社を辞めることはわかっていたので同期とも1-2人しか話しませんでした。完全に孤立してました。つくづくナメたやつでした

台湾の大学院

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シンガポール国立大学の MBA で一緒だった友人と

台湾の大学院ではビジネスを学びました。MBA ってやつです。あ、国立シンガポール大学も留学で行きました。授業のレベルはどっちもどっちだと思います。強いて言うなら、国立シンガポール大学の方がキャンパスが広くて、学生の主張が強く、色んな人種の人が通っていて良かったなー、と思います。

ただし今も当時も別に MBA に興味はありません(苦笑)僕はただ台湾で割と自由に動きつつ、ビジネスの数字を学べたらいいな、と思っていました。ちなみに MBA が現在の起業に役立っているかというと、あんまり役に立っていないと思います(苦笑)詳しくは下のブログに書いています。

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台湾で MBA を学ぼうと考えている方へ applemint の代表である私から国立政治大学の MBA に通っていた時の体験記を伝えたいと思います。

大学院の時期に、東京のクラブを中国語で紹介するサイトを立ち上げました。東京にある色んなクラブを紹介してました。まめに更新していたこともあり、その当時は中国語で『東京』『クラブ』とかって検索すれば、僕のサイトが1ページ目に表示されていました。(2015-2016年閉鎖)

マネタイズは考えていませんでしたが、台湾の人から、東京のクラブを紹介して欲しいという連絡がよく来ていました。この時にデジタルなことに興味を持ち、Google analytics のビデオを Youtubeで見て日々試行錯誤していました。

佐藤峻leo sato

東京に戻って転職してからも土日や平日の仕事終わりにサイトをいじっていました。

転職、そして全然使えない自分

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写真は全く関係ない Moodymann との写真です。

大学院卒業後、友人の紹介でデジタルマーケティングやダイレクトマーケティングに強い外資系の広告代理店に転職しました。マイクロソフトの担当で、超エリートの担当者相手に日々悪戦苦闘していました。

週 3-4 でクライアントと定例があったのですが、定例の日は毎朝吐きそうになりながら出勤してました。というかよく吐いていました(苦笑)社内では英語ばかり使っていました。(自分が英語でフラットにコミュニケーションを取りたかったためです)

この会社では結果へのプレッシャーを身をもって体験しました。上司は効率の鬼で、彼女からはマルチタスクに関してかなり学びました。

あと先輩にデータアナリシストの人がいて、めちゃくちゃ優しくて優秀で、どんなに忙しくても僕の疑問に付き合ってくれました。その人はあまりに仕事ができる人だったので仕事が集まりすぎて、連日深夜3時ぐらいまで仕事をしていました。

社内のコミュニケーションも抜群にうまくて、こういう人が昇進するんだなーと思いました。今経営者の立場になると先輩みたいな人を真っ先に欲しくなります。そんな僕は社内では相変わらず孤立し、あるプロジェクトでは怒られる毎日。

ある時はクライアントに鼻で笑われました。転職した当社は効率の鬼を発揮して卒なく業務をこなしていましたが、次第にボロが出始めました。今その当時一緒に働いていた人に僕が起業したことを話したらみんな驚くと思います。

また、入社後半年して、実は自分が契約社員だったことがわかりました。契約社員なので派遣社員と違って正社員と同じ待遇でしたが、契約が切れればいつでも切られる不安に突然襲われました。

契約書には試用期間後 “shall be full-time” (正社員になるものとする) と書かれていましたが、shall って should や must より弱い助動詞でなんでも誤魔化せるんですよね….この時に会社への信頼はなくなりました。

佐藤峻leo sato

僕は明らかに日系より外資向きでしたが、この会社では外資系の厳しさも教わりました。

困った時の逃げ場台湾

いつ切られるかわからないという不安の中で仕事していたことでかなりのストレスでした。仕事のパフォーマンスも次第に落ちていきました。自分の中で徐々に転職が現実的になりました。

次どうしようかなと考えていた時、なぜか知りませんが台湾で働いてみようかなと思いました。まー逃げの台湾です。

その後人材派遣会社を通して、台湾にある某広告代理店へ転職することになりました。ここでは色々いい経験をさせてもらいました。僕が担当したクライアントはマイクロソフトの担当者と比べるとみんな天使みたいにいい人達でした(笑)

もちろん雇用形態は正社員でしたし、自分がずっとやってきたデジタルマーケティングのスキルや能力を活かせる環境だったので仕事は順調でした。ただしこの会社では、自分が協調性に欠ける行いをしたこともあり、居場所がなくなり割と早く退職することになりました。

佐藤峻leo sato

小学生の時に辞めないことを学んだとか言って辞めまくっているという矛盾…(苦笑)

起業、そして現在

正直に言います。

僕が台湾で起業したのは、もうここまできたら起業しかないんじゃないかと思ったからです。確かに30歳になる前に起業したいなんて思ってましたが、それはあくまで希望でした。

あまりに短期間で退職を続ける自分に対して、こんなんじゃだめだなーと思ったのが本音です。また、会社に属す限りは会社から給与を得ているわけでどこの会社に行っても不満があるなら自分で責任を負うしかないなと思っていました。

起業前や起業1年目や2年目のことは以下のブログに書いています。

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台湾スタートアップ実録!台湾で起業を考えている人に是非見てもらいたい起業1年を記録したブログです。ビザ更新のため 1年目の売り上げが 300万元必要という情報や、ビジネスの良し悪しが不安でなかなか一歩を踏み出せないという方はこのブログを見て僕が1年目に体験したことを参考にしてもらえればと思います。

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applemint が台湾で起業して2年目をどのように歩んだかを書いています。

最後に

別に僕は人より特段優秀じゃないです。謙遜さをアピールしたいわけでもなく本当にそう思ってます。僕と一緒に働いていた人に聞けばわかります (笑)

根もビビリです。正直今まで育ってきた環境に救われたところがかなりあります。

ここまで読んでどう思いますか?こんなビビリで、特別優秀じゃない人でも台湾で起業してそれなりに会社を運営できてます。それは別に自分の実力とかというよりは周りの協力や環境、運のおかげです。

僕は台湾で起業して会社が形になってきたことで、じゃー今後僕はどういう風に生きていきたいか考えるようになりました。一時期はお金を儲けたらその後は自由に暮らそうなんて思っていたこともありますが、僕は働き続けたいと思っています。

なぜか?

それは僕が幼い頃から特段優秀ではなく、ビビリでいつも周りから認められなかった反動で承認欲求が強いためだと思っています。僕は人からありがとうと言われたり、すごいと言われるとなんだか安心します…

じゃー僕は今後どうなりたいかと思った時、僕は「面白い人」「クリエイティブな人」と人に思われたいなーと思うようになり始めました。それは大学時代から今に到るまでに出会ったアーティストやクリエイターへの憧れです。

正直僕みたいなビビリで、服のセンスがない (苦笑)、クソ真面目なやつがクリエイター/面白い人になれんのかって感じですけど、僕がそうなりたいのならまずは目指してみます。僕の経験を通じて、僕みたいに内向的だけど面白いアイデアを持っていてそのアイデアを試したい思っているような人の背中を押せればなと思っています。

その第一弾として applemint lab を始めます。自分で言うのもなんですが、ものすごく面白いビジネスクラブです。

以上 applemint 代表佐藤のプロフィールでした。

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